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日语能力考试一级阅读测试题及答案(一

发布时间: 2012-06-28 09:11:13 作者: sxsgeass

  『魔』は日本にも存在するのだろうか。日本人にとっての魔の概念を、国日本文化センタの山折哲雄教授(宗教学)に本、羽神朋子がいた。

  善の感について、日本には、ユダヤ教やキリスト教の魔に相当するものは存在しない。日本にも鬼というものはあるが、これには『』の面と同に『神』の面もあり、

  神はときに鬼の面をかぶって他界からやって来たりする。

  つまり善とはに立せず、ダブルイメジとしてお互いに融合し互可能なにある。

  これが日本人の善にする考え方の一つのメルクマルだ。

  教の思想について、教では、地に堕ちた者でもの慈悲により直ち往生できるようにさまざまな救措置が用意されている。地に堕ちた魔的な人が永久にじめられているキリスト教的な考え方とは、この点が大きくなる。

  こうした教の考えを背景としているため、善にあまりこだわるべきでないという考え方が日本人にはある。宗教の地は善を越えたかなたに存在し、善はむしろ世俗的なだ、というわけだ。善にこだわるのは、生き方の本ではないと考えられてきたのである。

  そのため日本人には的なの念がなく、根源的にを掘り下げ突きめていくという思考形も培われていない。それで子どもに魔という名前をつけるような、の『び化』といった象も起こる。

  オウム事件について、オウム真理教のような事件はある意味で、キリスト教やユダヤ教でにされてきた『』が眼前にれてきたような出来事だった。事件をに、日本人は初めて『根源』ともいうべきものに直面し、人のの姿にづきはじめたといえるのではないか。

  だから今回の事件でも、非常にヒステリックに反するばかりで、オウム抹のような端で幼稚なしかできない。

  逆の言い方をすれば日本人はこれまで、そのくらい幸福だったともいえる。そういう人生を今後ももっていけるなら、それはそれで必ずしもいことでない。さらにこうした的な考え方が世界のものになれば、世界全体は平和になるのかもしれない。そうはいないのがなのだが。

  しい言

  魔:あくま/恶魔,魔鬼

  ユダイ:犹太

  らしめる:こらしめる/制裁を加えてりるようにさせる/惩罚,教训ダブルイメジ:二重の印象/双重印象 慈悲:じひ/慈悲往生:おうじょう この世を去って他の世界に生まれわること。特に死後、に生まれる こと。(佛)极乐掘り下げる:ほりさげる /突っんで考える。深く究明する。/深挖,深入思考培う:つちかう /能力や性をい育てる。育成する。/培养,培育ヒステリック:ヒステリを起こしているさま。また、して、度に感情の高まっているさま。/歇斯底里抹:まっさつ /人や事などの存在を否定し、消し去ること。/抹杀,勾消

  【解】

  前の文章をんで、後のいに答えなさい。下のある部分にどれを入れるか、1、2、3、4から最も当なものを一つびなさい。

  1、日本人の感からいえば、____________。

  1)鬼は『』である

  2)鬼は『善』である

  3)魔はかならずしもいものではない

  4)『鬼』は『神』と同じものである

  2、日本人の善にする考え方と合っているものはどれなのか。

  1)善とをはっきり区するのは意味である

  2)善とは立している

  3)善とは一つになることはできない

  4)善とは同じものである

  3、山折哲雄教授からみれば、日本人の善にする考え方はどれなのか。

  1)世界平和につながるかもしれない

  2)幼稚なものである

  3)的な面がある

  4)世界のものになれる

  4、日本人はオウム事件を___________。

  1)冷静にとらえている

  2)きっかけに反省しはじめている

  3)いろいろしてきた

  4)『鬼』の代表とている

  5、『ユダヤ教やキリスト教の魔に相当するものは存在しない』にある『相当』の意味と合っているものはどれなのか。

  1)お互いに向きあうこと

  2)相するにあること

  3)者のがつりあうこと

  4)者が『ほぼ』同等の格やきを持つこと

  6、『そうはいかないのがなのだが』にある『そはいかない』と一番意味の近いものはど れなのか。

  1)日本人はこれから幸福になれない。

  2)これまでの善の考え方がこれからもっていけない

  3)世界のものになれない

  4)世界全体は平和になれない

  解答与注释

  1(3)  2(1)   3(3)  4(2)   5(4)   6(2)

  翻译

  本杂志的宇贺神朋子采访了国际日本文化研究中心的山折哲雄教授:在日本是否真的存在恶魔。

  (山折哲雄教授作了如下回答)

  关于恶魔的感觉--在日本是不存在相当于犹太教或基督教中的恶魔的。

  在日本虽然有鬼一说,但是在鬼的一说中存在邪恶的一面的同时也存在神的一面,在对人类实行惩罚的同时也会保护人类。比如,在传统艺能或宗教的仪式中,神有的时候就会戴着鬼的面具从他界而来。

  简言之,善与恶并不是对立的,而是作为双重的身份相互融合,并存于可能转换的关系之中。这是日本人关于善恶的一种思维方式的印记。

  关于佛教的思想--在佛教中,即使是深陷地狱的人,由于佛的大慈大悲,为使其能够超脱,会有各种各样的拯救方法。在这一点上,其思想与深陷地狱的罪恶之人永世也不得超脱的基督教思想是截然不同的。

  由于以这样的佛教思想为背景,日本人认为并不应该局限于善与恶,在宗教之极尽处存在着超脱于善恶的彼地,而善恶则只不过是世俗的一种观点。日本人认为仅受限于善恶这种想法并不是生存的本质。

  正是由于这个原因,在日本人的思维中,并不存在绝对的恶的观念,也并没有追究恶的根源这种思考形态。所以就出现了像给孩子起恶魔名字那样的恶魔游戏这样的现像。

  关于奥姆事件--像奥姆真理教那样的事件,在某种意义上,出现了犹太教和基督教中的恶魔。以这件事为契机,可以说日本人开始直面应该称之为“根源恶”的事实,开始意识到人类邪恶的一面。

  所以对于这次事件,全是一些歇斯底里的反应或像奥姆抹杀论那样的极端幼稚的论调。

  如果换一种说法,也可以说日本人至今都是非常幸福的。如果他们今后也怀有那样的人生观生活下去的话,也未必是件坏事。甚而如果这种乐观的思维方式如果可以成为世界的一种思维方式的话,也许全世界都会和平。但这是不可能的却也是一种现实。

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